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ケレン味あふれるブログを目指します。

押井守が語る「順番に考えること」の重要性と、そのための「漢文」学習について。

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押井守という人がいる。

作品はもちろん、歯に衣着せない、かつ独特の論理展開で本質をつく言説でも人気の映画監督である。そして圧倒的な犬好き。

 

押井守は著書

「コミュニケーションは、要らない」で

こう断言する。

日本人は順番にものを考えられない。

だからダメなんだ・・・!

 

どういうことか。以下、同書からの引用。 

日本人と言うのは、とにかく一から順番にものを考えるということが苦手だ。論理的に物事を積み重ね、結論に辿り着くという思考回路が不思議なほど欠如している。「絆」などという情緒的な言葉に過剰に反応し、「廃炉」や「原発」という言葉にも情動的な反応を見せるが、その背後にある物事を学び、そこから順番に考えることができない。

 この指摘自体は珍しいものじゃない。だからこそ「論理的思考」だの「本質思考」だのをテーマにした実用書が多く出され、売れてもいる。僕らも自覚がないわけじゃない。 

ユニークなのはここからで、押井守は日本人の論理思考の欠如の原因は、言葉であると断言する。その中でも「書き言葉」だと。 

ロジックとしての言語とは、平たく言えば「書き言葉」のことだ。人間は書き言葉で文章を書くことでしか、論理的にものを考えるという思考回路を身につけることはできない。 

しかし、明治維新以降、この書き言葉が急激に劣化したと押井は言う。なぜか、それは、「漢語教育の縮小」に原因があると指摘する。 

 

論理的思考のためには、漢文を読み下せ!

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日本人にとっての漢文とは、欧米人におけるギリシア語であり、ラテン語だ。古典言語とは、言葉のルーツであり、ロジックそのものだ。その構造を意識し、読み下していくということ自体がロジックを組み立てる訓練になる。つまり、日本人にとって漢文の教養を持つということは、論理的思考を確立するために必要不可欠なものだったのだ。だが、日本人は易きに流れ、それをなおざりにした。

 言わずもがなの事だけど、明治初期の「言文一致活動(※1)」以前は、日本の口語(話し言葉)と文語(書き言葉)は別のものだった。押井が言う「書き言葉」とは、現在の一般的なそれではなく「漢文」のことだ。

 

漢文の授業を思い出してみると、確か主語はこれで、戻って動詞がこれで、みたいなパズルを解くような、そんな感覚だったような記憶がある。パズルというのが、つまりは文章構造のロジックに他ならない。なるほど、確かに。そう言われてみればそうなのかも。いや、きっとそうなんだろうな。

 

つまり、

「読むだけで論理的思考が身につく」

実用書のタイトルだったら、ウソつけ! と思ってしまうくらいのもの。それが漢文なのだ。そんなこと当時の先生たちは誰も教えてくれなかった。(まあそう教えられても当時の自分のモチベーションに影響したとも思えないが)

 

論理的思考とは、相手に自分の意図を正確に伝えるために必要なもの。

「書き言葉の劣化」と、それに伴う論理的思考力の欠如は、どんな問題を引き起こすのか。それは「伝える能力の低下」だと押井氏は言う。

これはアニメスタジオで企画書を提出させて驚いたことだが、今の若い制作者たちは、自分が作りたい作品について、その魅力を的確な文章で伝えることができない。ようするに、自分の頭の中にあるイメージを相手に論理的に伝えるという訓練ができていない。さらに言うなら、そのための言語を持ち合わせていないのだ。

そしてそれはアニメ業界に限った話ではないだろう、と押井は推測する。

今の企業の中に的確な文章で企画書を書ける者が、果たして何人いるだろうか?パソコンのソフトを使って、企画書の見栄えを整えることはできても、言葉を構成して相手が納得できるように説明できる者は稀有だ

 

ああ耳が痛い。当たってます。当たってますよ、押井さん。

(以前書いた宮崎駿の文章のみの企画書の記事)stereorynch.hatenadiary.jp

この宮崎駿の文章の力は、あまりにも圧倒的過ぎて参考にならない。途方に暮れてしまう。でも、これを目指せと押井守は言っているのだと思う。そこに向き合わないうちに、パワーポイントのスキルをいくら上げようが無意味である、と。

 

 

最後に、少し前に話題になった記事。

anond.hatelabo.jp

 

このブログの言わんとするところは、「古文・漢文」は、実学(役に立つ学問)ではないので、少なくとも大学受験の必須科目からははずすべきだ、ということだ(と思う)。

書いた人の意図がうまく伝わっていないため、コメント、ブックマークを含めてかなりな議論になっている。 

 

今すぐ漢文を勉強するべきだ。

 

 

(終わり)

 

 

 

 押井守の本質論
コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

 

 

この本は、他にも卓見オンパレード。

  • 知識と教養は違う。知識人にバカはいるが、教養人にはいない。
  • 日本に常任理事国入りの資格はない。
  • 協調することがコミュニケーションなのではない。

 押井節全開。2時間で読めます。

 

 

 

 

(※1)言文一致活動

日本で明治から大正にかけて行われた、書き言葉と話し言葉にに近づけようとする運動。一般に文字をもつ言語では、書き言葉が古い形にとどまりやすく,話し言葉との差が大きくなっていくが,日本でも,明治になって読み書きする階層が広がるにつれて,両者の違いによる不便が痛感され,文筆家によって言文一致の運動が起された。