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ケレン味あふれるブログを目指します。

鈴木敏夫がわからない(その➁)

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 鈴木敏夫を暴くキーワードは「虚無」である、その➁へ続く。

と偉そうにカミングスーンしたのが5か月前。 すぐ続きを書こうと思ったのだが、直後にこの本の発売が発表された。

 

「禅とジブリ

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〈「今」を生きなきゃ! ──スタジオジブリプロデューサーと禅の僧侶が語らう、現代の生き方〉 〈ジブリを禅で読みとく、禅をジブリで読みとく白熱対談〉 「過去、未来じゃなく、もっと今のことを考えなきゃ」──スタジオジブリプロデューサー鈴木敏夫氏が禅僧と奔放対談。対するは、玄侑宗久氏(作家・福聚寺住職)、横田南嶺氏(臨済宗円覚寺派管長)、細川晋輔氏(龍雲寺住職)の三人。『もののけ姫』『火垂るの墓』などジブリの名作から、死生観や人生哲学などを禅的に読みとき、宮崎駿高畑勲両監督との映画制作の経験に照らして禅を語ります。月刊『なごみ』連載に対談と鈴木氏のエッセイを追加収録。 【スタジオジブリプロデューサー鈴木敏夫氏が禅僧と奔放対談。ジブリの名作を禅的に読みとき、映画制作の経験から禅を語る。】

  

これは待つべきかもしれない。と思った。

この本を。

「虚無」と「禅の精神」は、どこか通じるものがあるような気がしたからだ。

(言い訳です)

 

ついに出た。今月。

音速で買って読んだ。 

結論から言うと、 

やはりそうか。

と膝をうつものだった。

でもそれだけじゃない。今の時代になんとなく蔓延している「妙な勘違い」を穿(うが)つような、そんな新たな気づきも得られて、控えめに言っても最高の本だった。

 

順を追っていこう。

 

結局、自分のやりたいことをやっていないんですよ。(鈴木)

 

「自分はやりたいことをやっていない」

「会社にいいように搾取されているんじゃないか」

「うちはブラック企業だ」

働き方改革、というわかりやすくも謎なワードが踊る昨今、こんな風に思っている人も多いんじゃないかと思う。でもどうにか折り合いをつけて日々を生きている。人にはいろいろな事情がある。でも、どこかで「このままでいいんだろうか・・・」とも思っている。

 

誰あろう、鈴木敏夫もそうなのである。

  

結局、自分のやりたいことをやっていないんですよ。望むことがあったとしても、結局はそれに近づかない。ただ、人に頼まれたからやるか、と。僕の口癖なんですが、気が付くと『しょうがない』って言ってる。その結果として映画を作っているだけなんです。」

 (「禅とジブリ」より」)

 

説明すると長くなるので簡単にまとめるが、そもそも鈴木は徳間書店という出版社のサラリーマンだった。「アニメージュ」というアニメ雑誌の創刊をきっかけに、宮崎駿高畑勲という、たまたま一緒にいた世界レベルの天才二人と繋がってしまったことで、ジブリ創設に深く関与し、その後、宮崎の求めに応じて徳間書店を退職。スタジオジブリの専従となった。

 

つまり、頼まれたのである。やりたいわけではなかった。

宮崎駿から頼まれたんだったら、そりゃやるっしょ!」

と思うかもしれない。でもそれは間違いだ。

なにしろ30年以上前の話で、宮崎駿は(一般的には)全くの無名の時代だ。

だからといって謙虚で気持ちのいい若者だったとも思えない。今と同等か、若いぶん余計にギラギラした難物だったことは想像に難くない。絶対イヤだ。付き合いたくない。

 

頼まれたから、やっているのである。

そして、そのスタンスを鈴木はこの30年間崩していない。

つまり、「受け身」の姿勢である。

 

前項でも触れた、鈴木敏夫に弟子入りした川上氏もそれを証言する。

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「鈴木さんは本当に今でも『朝日芸能(※徳間書店)』の記者ですよね。本質的に。鈴木さんがなぜ記者だと言えるかというと、『当事者』じゃないから。自分が決めて自分がやっているはずなのに、気がついたら『自分は関係ない人だ』みたいなスタンスをとっているんです(笑)。」

※引用 SWITCH「スタジオジブリという物語より

 

このスタンスで、彼は数々の日本映画史に残る偉業を成し遂げてきた。しかし驚きなのが、それを鈴木敏夫自身、最近まで「これでいいんだろうか?」と思い悩んでいたという事実だ。 

NHKの「100分de名著」という番組で『荘子』シリーズを見たことがある。番組の中で、こんな一節が紹介された。

「一切をあるがままに受け入れるところに真の自由がある」

この言葉を知って、僕は救われた気持ちになった。何を隠そう、僕は人生を受け身で生きてきたへんな自信がある。とはいえ、そんな立派な考えでそうやって来た訳じゃない。ましてや、そこに真の自由があるなど考えたこともない。しかし、この番組をきっかけに、僕は積極的に受け身を追求してみようと決めた。

  (「禅とジブリ」より」)

 

やりたいことと、得意なことは往々にしてイコールではない。

人間は不幸にしてそういうふうにできていない。神様を好きになれない一番の理由はここにある。

やりたいことを「夢」に、得意なことを「才能」に置き換えたとしたら、この不幸は一層深刻になる。

 

得意なこと(才能)は、自分では気づきにくかったりもする。

なにしろ、あまり意識しないで出来てしまう、自分では当たり前の感覚だからだ。

教えてくれるのはいつだって他人である。

どういうカタチでかというと「頼まれる」のだ。

 

「やりたいことがそもそもない」という人もいると思うし、それが普通だ。

しかし「得意なこと」は誰でも必ずひとつは持っている。

そこに気づいてフォーカスできるかどうかは、人生の秘密であると言っていいほど重要だと思う。

 

【頼まれたこと】×【この人のため】にこそ最強

鈴木敏夫は、その持てる潜在能力を100%に近いほど発揮することができたんだと思う。これは僕の見解だが、その理由は「誰かのために」、「自分の得意なことだけやった」からである。

 

またも川上量生氏の言葉を借りる。

「僕もそれは鈴木さんとも何度も話したことがあります。やっぱり、会社でもなんでもいいんですが、他人のためだったら結構人間頑張れるんですよね。(中略)で、自分のためと考えると『今、寝たい』とかそいういう自分の今の欲望に行き着くじゃないですか。(中略)だから、『他人のため』っていうのは人間が努力をするためには凄く重要な構造だなと。」

 ※引用 SWITCH「スタジオジブリという物語より

 

まさにこれである。

変なこだわりやプライドを捨て、自分の持てる100%発揮する、このプロセスに必要なことは、

【頼まれたこと】【誰かのために】

やることであるように思う。

【やりたいこと】を【自分のため】にやることではないというのが重要だ

 

鈴木敏夫は、宮崎駿に【頼まれた仕事】を、【宮崎駿のため】にやったのだ。矢印は全く「自分」に向いていない。

くれぐれも言っておくが、これは幸福論とは別の話である。

 

そして、ここでいう【誰か】というのは、必ずしも特定の人物とは限らない。

「子供たちのため」や「社会のため」など、もっと大きな単位やテーマになるかもしれない。いずれにしろ、自分ではないということだ。

 

そしてそれは、【やりたいこと】と【得意なこと】が前人未踏レベルで結実した宮崎駿ですらそうであるように思える。作りたいものを作っているわけではない。彼の作品づくりの動機には、常に上記の2つが存在している。(基本的は空中戦を描きたいのだ)

 

「やりたいことやってる?」という甘いささやきに耳を貸すな

 

 「やりたいことやってる?原理主義者」はこれからいっそう増え続けると思う。明らかにそういう時代だ。

明確にやりたいことがあって、それに対していかなる努力も厭わないケイスケホンダのような人は、やるべきだと思う。むしろ、ぜひやって彼のように夢を見せて欲しい。

 

しかし、そういう人ばかりではない。

自分に明確な何かがない、と感じている人にとっては、鈴木敏夫のスタンスはおおいに参考になると思う。

 

人生で最も重要なのは、

自分の得意なことを見極めると、

それを発揮する対象としての他者の獲得にある。

 

鈴木敏夫は、それをやったのだ。

 

最後に、今回の本で最も自分が好きだった箇所を引用する。

文脈は省くので、ぜひ実際に読んでみて欲しい。

 

昨今、「承認欲求」という言葉があるじゃないですか。あれを発明した人は許せないと思うんです(鈴木敏夫)。