山崎洋一郎氏をご存じだろうか。
音楽誌「ロッキング・オン」および
「ロッキング・オン・ジャパン」の総編集長であり、
WEBサイト「RO69」の編集長も兼務する、
本人曰く「めっちゃ☆編集長」である。
つまりは、ロックジャーナリスト。
舌鋒するどくアーティストに挑み、たまにケンカする。
その界隈では、かなりの有名人である。
そんな氏が、もう長いこと本誌で行っている連載コラム「激刊! 山崎」
を集めた書籍(タイトル同じ)に、こんな一節がある。
多くの人に愛される表現の条件
ロックや音楽にとどまらず、
「表現」というものが多くの人に伝わる条件として
① 振り切れていること。
② (現実の中では)相反するとされる要素が表現のなかで共存して両立していること。
① はとてもわかりやすいだろう。
問題は②である。
相反する要素の両立とは、いったい何か。
簡単に喩えて言えば、「赤いのに青い」とか、「冷たいけど熱い」とか、「硬い、だから柔らかい」とか、「真っ暗で眩しい」とか、そういうことである。
音楽で言えば、ものすごく悲しい歌なのになぜか希望や力を与えてくれたり、ものすごく優しい歌なのに底知れない厳しさが感じられたり、明るい前向きなことを歌ってるのにそこに救いようのない諦めが横たわっていたり、不細工な音楽なのに愛おしさや美しさが溢れていたり、そういう音楽は多くの人に伝わり、ひとりひとりにとっての特別な曲となって愛される。
これを読んだ時、思いっきり深夜だったのだが
「なるほど!!」と一人で叫んでしまった。
例えばブルーハーツの「TRAIN TRAIN」を明るい曲だと断言する人はいないと思う。
絶望を燃料にして走る列車を、自分の生き方になぞらえた歌だ。それがこの上なく明快で美しいメロディでぶち上げられるからこそ、僕たちはあの曲を聞いてバカみたいにアガるんだと思う。
松本人志が、常々口にする「哀愁こそ笑い」というのもそうだ。
取り繕おうとしたり、カッコ良く見せようとしたり、
そういう人間らしい「もの悲しさ」を、いつも氏は笑いへと昇華し、
僕たちは体験したことのない種類の衝撃とともに、笑う。
BUMP OF CHICKENにいたっては、もっと直接的だ。
いつの頃からか、「〇〇なのに〇〇」という歌詞がすごく増えたように感じる。
「寂しくなんかなかったよ ちゃんと寂しくなれたから(ray)」
「なんだって疑ってるから、とても強く信じている(アンサー)」
3者は例えばの事例だが、共通するのはファンの「濃さ」と、その熱狂度だと言える。それぞれが「自分こそが最大の理解者」だと自負している点も共通している。
では、なぜ僕らはそんな表現にどうしようもなく惹かれてしまうのか。
コラムはこんな風に続く。
その矛盾は、僕らの心そのもの
それは、僕らひとりひとりの心がそういうものだからだ。愛するから憎しみを抱く、美しいから壊したくなる、楽しいから寂しくなる、いつか死ぬからこそ懸命に生きる‥‥そういうありのままの心は、現実場面では「矛盾」というレッテルを貼られて受け入れられずに拒否されてしまう。でも表現――特に音楽の中ではそれが完璧に実現していて、そこでは僕らのありのままの心が受け入れられる。だから、僕らは表現を、音楽を必要とする。
言葉は不完全だということだと思う。
でも、生活の中でも、思考の中でも、僕たちは言葉から離れられない。
知らず知らずのうちに、その不完全さからくるストレスはたまりまくっている。
だからこそ、時に表現やアートに触れなければ、やってられないのだ。
なにかをまっすぐに表現したものよりも、
言葉の不完全さを顕わにするようなもの。
矛盾する要素を平気で両立させたもの、
それが「熱狂するクリエイティブ」の条件だと。
刺さりまくりました。
このコラム集は他にも、
〇僕たちを人間たらしめているのは「せつなさの前借り」である
〇大人とは、「間違い続けた結果」である。
等の示唆に富んだ、示唆りまくりの内容になっている。
ロックに興味なんかなくたって関係ないので、ぜひ。