「どちらとも言えない」は意見ではないという風潮について
なんでもいいんですが、賛成・反対の他に
「どちらともいえない」
という選択項目があります。
これは、白黒をはっきりしない日本人的な悪癖という意見もあれば、そもそも当該事項に関しての検討を充分に行っていない。
つまり、「考えていない」。ゆえに「意見とは言えない」とする向きがあります。
果たしてそうなんでしょうか。
知れば知るほど、「どちらともいえない」時がある。
もう10年以上、沖縄の米軍基地の移設問題、というか沖縄に米軍基地があり得ない割合で集積していることについて、ひいては日本に米軍が駐留していることそれ自体について、自分なりにいろいろと調べ、一体どうするべきなのか、考えてきました。
できるだけ偏らないように、対照的な意見の本を複数読み、シンポジウムに参加し、果ては沖縄で現地の人の意見を聞き、出来うる限りの熟慮を重ねた結果、
行き着いた答えは、
「(マジで)どちらともいえない」
でした。
(これは、辺野古への移設の問題についてです。米軍自体は将来的にはなくなった方がいいと基本的には思っています。)
個人的感情と戦中・戦後の歴史的背景、現在の安全保障上の問題、地位協定も含めた日米関係、そして現地の人の意見と事情、およそ複雑に絡み合った全てを総合すると、どう頑張っても「どちらともいえない」に行き着いてしまうのです。
それ以来僕は、この問題の意見を求められた場合は、忸怩たる想いの中で、しかし堂々と「どちらともいえない」と主張することにしています。
分断を助長する「お前はどっちだ?」スタンス。
これを意見と見なされないのは、正直つらい。
無責任と見なされるのも、イマイチ納得がいかない。
賛成もしくは反対、多い方を民意として事が動いてくことはしょうがないと思います。しかし、「どちらとも言えない」もひとつの意見として認めて欲しいとは思うのです。
(そもそもこの辺野古への移設問題については、反対がいくら多くても、もう決まっていることとして強引に進められることと思いますが・・・。)
何か問題を考える時に賛成・反対のどちらでもない
場所に辿り着いてしまう可能性は充分にある。
そしてそれを知ることが、自分もよくやってしまう、「お前はどっちだ?」という分断を助長するスタンスを改めるきっかけになるのではと思います。
世界は難しい。