世界滅亡のトリガーは「善にして義なる者たち」の歯ぎしりである。
「こんなの、芝生の上で
ゴザ代わりにされて終わりでしょ」
あるデザイナーの発言である。
ずいぶん前の話だ。
とある地元の音楽フェスのために制作していたガイドブック。その制作も佳境に差し掛かり、あと一息、という所で飛び出した発言だった。
ニヒリズム、と聞くと僕はこの言葉を思い出す。
現実主義者、といっていいかもしれない。
今、この国は現実主義者花ざかりである。
おびただしい情報量の中で、もはや子供ですら現実をわきまえている。
一億総リアリストだ。
リアリストの基本的な態度とは、
「理想はそうだが、現実はそうなっていない。だから、達成可能な課題設定を行い、そこに向かう。」
というものだ。
これ自体はなんら非難できるものではない。
特に仕事を遂行する上では、大なり小なり必要になる考え方だ。
政治家でも、経営者でも、最近はこの手のリアリストが人気な気がする。
しかし、である。
この態度が全方位的に貫徹されていない。
いやむしろ、この現実主義者たちが突然、
理想論者に変貌することがある。
これは現代が持っているひとつの歪な構造だと思うのだ。
世界平和は無理だが、俺のことは一切傷つけるな。
「世界平和」や「普遍的な正義の統一」は、理想論であるということでファイナルアンサーになっている。
両者によって導かれるのは、「戦争はなくならない」という厳然とした現実だ。
なくすことが無理であるからこそ、小康状態へ持っていくためのあらゆる手立てを行使すべきだ、というのが現実主義者の考え方だ。
それもわかる気がする。
しかし、こと人間関係においては、
理想は強く希求される。これがすごく不思議だ。
人は、人を傷つけるものだ。
誰にも迷惑をかけない。これも無理だ。
人は、生きているだけで他者に迷惑がかかる構造になっている。
これが現実である。そして僕たちはそれを知っている。
しかし、この現実は認められない。
ある発言や行動に対して、本人にその意図はなくとも、
「私は傷ついた」もしくは「傷ついている人がいる」という主張。
SNS上での炎上案件などは、大抵この物言いが背後にある。
これは、人を一切傷つけてはならない、という理想論である。
この理想の希求はなぜか許されている。
「世界平和」と「一切傷つかない人生」の実現は、
どちらの方が難しいのだろうか。
それとも、これは単なる極論でしかないのか。
ニーチェが教えてくれた身も蓋もない事実。
この疑問に答えてくれたのはニーチェだった。
その崇高な理想など追求していない、ということだ。
ルサンチマンという考え方がある。
ルサンチマンとは
怨恨,復讐を意味する語。特にニーチェは,強者の君主道徳と対比して,弱者の奴隷道徳は強者に対するルサンチマンによるものだとした。彼によれば,元来道徳の根底には生命の根源からくる力強さがあるが,弱者は強者に対する反感をもち続け,一般の既成道徳を生じさせるとした。
竹田青嗣の著書「ニーチェ入門」でも、ルサンチマンはこう解説されている。。
そもそもルサンチマンとは、感情を反芻すること、を意味する。つまり、「辛かったことにいつまでもこだわること」、「こんなに自分を苦しめた奴は誰だ」と、いつまでも恨みに思うことである。だからルサンチマン人間は、「あいつは力がある、したがってあいつは悪い」と考える。同様に彼は、「あいつは自分のことばかりを考える、この力のない<私たち>のことはちっとも考えない、だからあいつは悪い」と考える。
身も蓋もなくまとめると、
そもそも傷ついてもいないし、
攻撃相手は誰でも良い
(自分より力のある人間なら)
ということになるだろう。
なんだそりゃ。考えて損した。
SNSというのは、このルサンチマン可視化ツールだ。なまじ成功体験があるがゆえに、今後もこの熱は続くだろう。
しかし、その状態こそが危険だ、とニーチェは言う。
いったい、人間の未来全体にとっての最大の危険は、どういう者たちのもとにあるのか?それは善にして義なる者たちのもとにあるのではないか?

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)
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ヨーロッパの時の僧職者(=権力者)たちは、この弱者のルサンチマンを巧妙に組織し、はけ口を設定することで、思い通りの支配を実現してきたという。
この時代に明確な「悪玉」は存在しない。
では、格差が進むこの国で、この「善にして義なる者たち」の矛先はどこに向かうのだろうか。それは前述した「自分を苦しめている他者」であり、
その他者は誰でも良い。
権力者にとって、これほどコントロールしやすい時代もないと思う。
コントロールされない為には、
自分に対する客観的な視点を見失わないことだろう。
どう考えても、「善にして義なる者」なんかではない。