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ケレン味あふれるブログを目指します。

「言葉」という一神教について。

僕たちは日々、言葉を使い、言葉で思考する。嬉しい。悲しい。寂しい。

あんなことを言われて傷ついた。あの人のこんな言葉が嬉しかった。宝物にしよう。

 

言葉をツールではなく、霊的な何かが宿るもの(言霊)として僕らは信望している。

そこまでいかないとしても、感情は言葉にのせることができると思っている。しかし、言葉とは極めて実用的で便利なツールだが、それ以上のものではない。ジャンルとしてはハサミとかルンバとかと同じカテゴリに属するもの、それが「言葉」である。もちろん、自分が気づいたわけではない。ソシュール御大がそう言っている。目から鱗どころの騒ぎじゃない。

 

言葉とはものの名前ではない。感情の名前でもない。

  <フェルディナンド・ソシュール 1857-1913>

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言葉とはものの名前ではない。まして、感情の名前でもない、非常に恣意的な、デジタル化された記号である。私たちはそれがあたかも「歴然と存在する」「そう名付けられる前からこの世にあった」かのように捉えている。そうではない。とソシュールはいう。言葉とは実体ではなく、「差異」の体系である。

もの凄く簡単に言えば、「女」というのは、「男」がいない限り存在できない。ナメック星には女がいない。だから全員ハゲているし、男という概念がない。

同様に、「嬉しい」という感情も、「悲しい」という感情がなければ認識できない。もし、なんらかの理由で人間に「悲しい」という感情が欠落した場合、同時に「嬉しい」も消えてなくなるはずである。言葉は独立して存在できない。

 

そんなものが果たして「在る」といえるだろうか。

 

ニーチェ「そうそう。だから言葉でできてる世界も虚構」

 <ニーチェ 1844-1900>  

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ニーチェも、言葉は虚構であり、だからこそ言葉で出来ているこの世界自体が虚構であると言い切った。これは20世紀後半(1960年代)に起こった、構造主義と呼ばれた新しい哲学の源流である。

これは、「我思うゆえに我あり」というデカルトの「実体論パラダイム」から、「関係論パラダイム」への大転換であり、かつてガリレオニュートンが達成した古典物理学と同様、近代を近代として特徴づける決定的な事件であるとされた(丸山圭三郎)。

 

それは言語の分野にとどまらず、歴史・宗教・倫理・道徳など、この世界を取り巻く全てに、普遍的な真理が存在しないということ。あるのは「関係」のみであるということ。矛盾するようだが、人類は200万年かけて、こんな「身も蓋もない」真理に行き着いたのである

 

ニーチェソシュール「21世紀の諸君、この真理、活かしてくれてる?」

構造主義思想が現れてから50年、僕たちは言葉の不完全性を認識し、少しは適切な距離をとれるようになっただろうか。全然なってない。むしろ状況としては逆行ぎみである。ネット空間には呪詛の言葉が渦巻いていて、ターゲットとされた人、グループ、あるいは国に対する絶え間ない集中砲火が続いている。言葉自体が虚構なのに、それを増幅する虚構(インターネット)が現れてしまった。つい最近も、セクハラ被害を告発した作家の女性が、逆に自身の過去のセクハラ発言を発掘され、執拗な攻撃を受けていた。彼女は大きく傷ついただろうと思う。彼女は作家であり、ネット言論空間のオピニオンだからこそ、そこで交わされる言葉に真実を見出してしまうのだろう。言葉に敏感であればあるほど、言葉に傷つく。信じてしまっているからだ。

 

セクハラの境界線とは何か。浮気はどこからが浮気なのか。答えなんて出るわけがない。セクハラの線引きなんてものはないし、浮気という客観的・普遍的事実などない。その時々の、当事者間の関係において観測されるものであり、あるいは観測されないものである。間違いなく言えるのは、第三者が判断できるものではない。そして、この第三者の数が異様に多く、活動が活発なのがインターネット空間であり、世間であり、この世界だ。

 

僕たちは、その不完全さを知らないわけじゃない。

あるロックバンドは「愛という憎悪」と叫び、またあるシンガーは「言葉にできない」と歌う。ある落語家は「会話とは繋がっているようでいて、繋げているだけのもの。」と言い、ある作家は「脳内に抽象思考の庭を持て」と言った。いずれも、言葉の不完全性の指摘である(と勝手に思っている)。

ただ、それらはなにもクリエイターのみが持つ感覚ではない。僕たちもまた、日々の生活の中で嬉しさと寂しさが同時に立ち上がるような感覚を持つ。また、何かが終わることと、何かが始まることも全く同時に起こるはずなのに、両者を包括する言葉を見つけることができない。「終わる」という言葉のネガティブさにさいなまれて、ポジティブな一歩を踏み出せない。不完全だ、全くもって不完全だ言葉ってやつは。そのクセやたらと拘束力が強い。信じてしまっているからだ。

 

言葉からの脱出は可能か?求められる「疑う力」 

どうすれば言葉から離れられるのか。簡単に答えは出ない。逃げ場がないからだ。とりあえずネット回線を切って、家にカギをかけて周囲の言葉をシャットアウトすればいいのか。そうではない気がする。外からやってくる言葉だけを防いでもしょうがない。僕たちを苦しめるのは、往々にして自分の頭の中で生まれる言葉だからだ。先ほどの女と男、終わりと始まりの話じゃないが、ABがあって初めて存在する。もし、頭にネガティブな思考が生れたなら、その傍に必ずポジティブな思考があるはずで・・・・・・、いや、こんな安易なネガ・ポジ論みたいなことでもない。よりも、まず認識するべきなのは、「自分自身が自分の真実すら言葉にできない」事実であり、可能であれば、そもそも「自分の真実というもの自体が存在しない」という境地まで達することだろう。もう、こうなってくると瞑想状態である(笑)。

でも、その状態に少しでも近づきたいと最近は思っている。そうすることでしか他人、あるいは社会に渦巻く言葉と距離はとれないだろうと思う。距離をとるということは、許容するのと同義だ。これからの社会・世界のテーマは、国家間、人種間、人生観、仕事観、あらゆる意味において多様性の尊重と共存になる。いや、もうとっくになっている。「言葉という一神教」の信者のままだと、自分も早晩、異教徒を排斥することになる気がする。そうなってからでは遅い。トレーニングあるのみである。

修行するぞ修行するぞ修行するぞ・・・。

 

 

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