ぷLog

ぷLog

ケレン味あふれるブログを目指します。

森博嗣「わからないものを、わからないまま持っておけるのが、表現者である。」

f:id:stereorynch:20180124124531j:plain

楽家、漫画家、映画監督が好きだ。

学者や評論家も好きだ。

でもやっぱり創作する人たちの方が好きだ。好きというか、尊敬しているというか、なんでそんなことが出来るのか(やろうと思ったのか)という畏れも含んでいて、なかなか言葉にできない感情がある。

 

そう、まさに「言葉にできない」もの。

または「名前のついてない感情」。

彼らが取り扱い、表現するのはそれだ

少なくとも自分が好きな作家はそうだ。

その感情は、別に高尚なものでも、素晴らしいものというわけでもない。なんか情けなかったり、悔しかったり、恥ずかしかったりするものも含まれる。

最初にそれを僕に教えてくれたのは松ちゃんだった。

 


ダウンタウン 松本人志 ビジュアルバム 「古賀」

 

高校生の頃に見たんだと思う。

基本的には、ここに出てくる「謎なほど勝手な」友人の古賀(もちろん板尾)の生態を笑うコントだが、

僕が当時驚愕したのは、後半の

門扉前の攻防にある。

・友達の家の、門扉前でないがしろにされる感覚。

・学校での友達とは違う顔。

・一度家の中に戻って、帰ってこない友人。

・立ち尽くす自分

小学校の頃に、自分は確かにそんな経験をした。

そしてその時に感じた感情は、悲しいような、恥ずかしいような、あるいは怖いような、なんともいえない「よくわからない感情」だった。

しかし自分はそれを「ムカつく」的なわかりやすい感情に変換して、次の日別の友達に

「めっちゃムカついたわ、昨日あいつん家行ったらさー。」みたいな感じで終わらせていたんだと思う。

これが一般人だ。

作家は、これをわかりやすくしない。

わからないものを「わからないまま」持っておける人。

それが表現者の資質だ。

もちろん、自分で気づいたわけではない。

 

「わからないものをわからないまま」ずっと持ち続けられるかどうか。

すべてがFになる」で有名な森博嗣が、著書でこんな話をしている。

 

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

 

 

創作を自分で行うためには「感動できるけれど言葉にならないもの」、そんな「わからないもの」を自分の中に持っていなければならない。それは自分の中にもともとあったものではない。人間は生まれた時には空っぽである。考えて作り出せるといっても、それは外から取り入れたなんらかの刺激があったからだ。その刺激を解釈してしまえば、それは具体的な学問になる。

言葉にできないものを、しっかり解釈すれば学問になるということで、前述の自分のように浅はかに解釈すれば、それは単なる生活の一部になる。

 

「あれは、一体なんだったんだろう」

という感覚を、安易に解釈せずに持っておく。

抽象的に捉え、保存しておく。

それを、彼らはそれぞれの技術で、

音楽にし、絵にし、笑いにする。

芸術の創作は、「わからないもの」をわからないまま自分の中に取り入れた結果として可能になる「変換行為」だ。抽象的なものを持っていることが、創作への主たる動機になる。(中略)抽象的なものから出発して、それを具体化していく行為を「作る」あるいは「創る」というのである。

 

かの宮崎駿も(またハヤオか!)も、アニメーターを志す若者に向けて、こんなことを伝えている。

企画が決定されて、作品の創作がはじまるのだろうか。アニメーターの君はそのとき初めてその作品について、あれこれ構想を練るのだろうか。ちがう。もっとずっと前、たぶん君がアニメーターになろうとさえ思わなかった、もっとずっと前から、すべてが始まっているのだ。(中略)アニメーターになろうとする君は、すでに語るべき物語や、ある情念や、形にしたい架空の世界を、素材としていくつも持っているはずだ。(中略)ある種の気分、かすかな情景の断片、なんであれ、それは君が心ひかれるもの、君が描きたいことでなければならない。

 

きっとこの話は、表現者の間では自明のことなんだろう。でも、そんな困難なことをやろうとする時点で明らかに普通じゃない。ましてやそれが作品として結実している時なんかは、もう平伏すしかない。

そしてなんとなく、ありがとうと言いたくなる。