森博嗣「わからないものを、わからないまま持っておけるのが、表現者である。」
音楽家、漫画家、映画監督が好きだ。
学者や評論家も好きだ。
でもやっぱり創作する人たちの方が好きだ。好きというか、尊敬しているというか、なんでそんなことが出来るのか(やろうと思ったのか)という畏れも含んでいて、なかなか言葉にできない感情がある。
そう、まさに「言葉にできない」もの。
または「名前のついてない感情」。
彼らが取り扱い、表現するのはそれだ
少なくとも自分が好きな作家はそうだ。
その感情は、別に高尚なものでも、素晴らしいものというわけでもない。なんか情けなかったり、悔しかったり、恥ずかしかったりするものも含まれる。
最初にそれを僕に教えてくれたのは松ちゃんだった。
高校生の頃に見たんだと思う。
基本的には、ここに出てくる「謎なほど勝手な」友人の古賀(もちろん板尾)の生態を笑うコントだが、
僕が当時驚愕したのは、後半の
門扉前の攻防にある。
・友達の家の、門扉前でないがしろにされる感覚。
・学校での友達とは違う顔。
・一度家の中に戻って、帰ってこない友人。
・立ち尽くす自分
小学校の頃に、自分は確かにそんな経験をした。
そしてその時に感じた感情は、悲しいような、恥ずかしいような、あるいは怖いような、なんともいえない「よくわからない感情」だった。
しかし自分はそれを「ムカつく」的なわかりやすい感情に変換して、次の日別の友達に
「めっちゃムカついたわ、昨日あいつん家行ったらさー。」みたいな感じで終わらせていたんだと思う。
これが一般人だ。
作家は、これをわかりやすくしない。
わからないものを「わからないまま」持っておける人。
それが表現者の資質だ。
もちろん、自分で気づいたわけではない。
「わからないものをわからないまま」ずっと持ち続けられるかどうか。
「すべてがFになる」で有名な森博嗣が、著書でこんな話をしている。

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)
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創作を自分で行うためには「感動できるけれど言葉にならないもの」、そんな「わからないもの」を自分の中に持っていなければならない。それは自分の中にもともとあったものではない。人間は生まれた時には空っぽである。考えて作り出せるといっても、それは外から取り入れたなんらかの刺激があったからだ。その刺激を解釈してしまえば、それは具体的な学問になる。
言葉にできないものを、しっかり解釈すれば学問になるということで、前述の自分のように浅はかに解釈すれば、それは単なる生活の一部になる。
「あれは、一体なんだったんだろう」
という感覚を、安易に解釈せずに持っておく。
抽象的に捉え、保存しておく。
それを、彼らはそれぞれの技術で、
音楽にし、絵にし、笑いにする。
芸術の創作は、「わからないもの」をわからないまま自分の中に取り入れた結果として可能になる「変換行為」だ。抽象的なものを持っていることが、創作への主たる動機になる。(中略)抽象的なものから出発して、それを具体化していく行為を「作る」あるいは「創る」というのである。
かの宮崎駿も(またハヤオか!)も、アニメーターを志す若者に向けて、こんなことを伝えている。
企画が決定されて、作品の創作がはじまるのだろうか。アニメーターの君はそのとき初めてその作品について、あれこれ構想を練るのだろうか。ちがう。もっとずっと前、たぶん君がアニメーターになろうとさえ思わなかった、もっとずっと前から、すべてが始まっているのだ。(中略)アニメーターになろうとする君は、すでに語るべき物語や、ある情念や、形にしたい架空の世界を、素材としていくつも持っているはずだ。(中略)ある種の気分、かすかな情景の断片、なんであれ、それは君が心ひかれるもの、君が描きたいことでなければならない。
きっとこの話は、表現者の間では自明のことなんだろう。でも、そんな困難なことをやろうとする時点で明らかに普通じゃない。ましてやそれが作品として結実している時なんかは、もう平伏すしかない。
そしてなんとなく、ありがとうと言いたくなる。