「本質フェチ」の正論ボーイたちへ。松本人志と太田光の言葉に見る「想像力」という魔法の杖。
「それって結局、本質はさあー。」
どんな業種でも、会議で
一度は耳にしたことがあると思います。
みんな「本質」が好きですよね。
できるっぽいビジネスパーソンは特に。
こんな本も一時期話題になりました。
読んでないですが。
おそらく、何を考えるにしても、
「本質」を最初に見極めなければ、
解決策は見いだせない、
議論もいい方向に進まない、
ということだと思います。
その通りだと思いますし、
僕もずっと、それこそが大事だと思って、
いつでも、「本質探し」をしていました。
・企業が持つ課題、
・業務上の問題、
・人の悩み、
表面に立ち現れているのは現象であって、
そこに捕らわれてはいけない、と。
根っこに目を向けなければならないと。
でも最近、ちょっと思ったんです。
この方法、
そんなにうまくいかんぞ。
って。
最近、こんな事がありました。
(LINEにて)
Aさん「相談があるんです。」
僕「どうぞ。」
Aさん「ご存じの〇〇という商品なんですが、SEOにかける予算を先月から3倍にしました。でも全く売上が伸びないんです。どうしたらいいでしょうか?」
僕「3倍にする前はどのくらい売れてたんですか?」
Aさん「いや、売れてないです。」
僕「誰もいらない商品なのでは?」
(既読無視)
Aさんとは信頼関係があるからこそ、
最短距離で本質を突いてみました。
Aさんは僕に相談して良かったと
思うでしょうか。 上司に、
「売れない理由がわかりました!
誰も必要としてないからでした!」
と報告できるでしょうか?
つまり、僕が思ったのは
こういうことです。
問題の本質が「解決不能」だった場合、
この「本質論」は意味を成さない。
そして、そのケースは意外なほど多い。
後退戦なら、せめて「楽しむ」しかない。
悩み相談で正論を吐くやつは嫌われる、
という話もよく耳にします。
かくいう自分がそうです。
例えば、苦手な相手がいる等の
人間関係的な悩みを相談された時、
僕は、一刻も早く本人すら気づいてない
「本質」を炙り出し、明確な解決策を
提示してあげないといけない。
と思ってしまいます。
「むむむ、そうか、わかったぞ!
本質はこれだ!これでどうだ!」
⇒反応がすこぶるニブい‥。
「いやまあ、それはそうなんだけど‥」
それはそうってお前、
絶対気づいてなかったっしょ!
これしかないから!
とりあえずこの方法試してみてよ!
そうではないんです。
そんな事言って欲しいんじゃないんです。
むしろ、それだけは言って欲しくない。
本質にはそういった残酷さがあります。
では、こういった時に、
僕は相手に何を言ってあげればいいのでしょうか?
ヒントになったのは、この二人の言葉です。
ムカついた相手への対処法
「偉そうなおっさん。はらたつおばはん。その人たちの少年少女の頃を想像してみる。。。なんか笑えてくる。なんか許せてくる」
実はよくよく考えてみると、俺のことを「太田死ね」って書いた奴も、その瞬間書いただけで、後はずっこけたりして、逆に人に悪口言われて傷ついたり、なんか上手くいかずに落ちこんだりっていう、そのことを想像しちゃうと、なんかバカみたいだな、そんなことで落ちこんでるって、っていう気になれるんだよね。
お笑いで一時代を築くような人は、
同じ発想になるのでしょうか。
2人とも、想像力を働かせることで、
「解決する」のではなく、
「楽しんで」しまう、という話です。
偉そうなおっさんや、悪口を言う人を、
根絶することはできません。
それなら、むしろ楽しんでしまおう。
なんだって想像力で面白がれるはずだ。
という話です。
僕ではとても辿りつかない答えです。
もし、人間関係で悩んでいる人に、
その人との関係性自体を面白がる発想を
示してあげられたら、
そしてそれが楽しそうだと思ってもらえたら、
どんなに素晴らしいことでしょう。
本質論の行き着く先はいつだって正論です。
しかし正しいからといって
解決するとは限らない。
それは僕たちが人間だからでしょう。
解決まで一直線の道を探すより、
どうやったらみんなで楽しめるか、
という視点をもつということ。
大事なことだなあと思いました。
最後に、前述のAさんとのLINEのやりとり、
今の僕だったらこう返します。
(LINE)
Aさん「相談があるんです。」
僕「どうぞ。」
Aさん「ご存じの〇〇という商品なんですが、SEOにかける予算を先月から3倍にしました。でも全く売上が伸びないんです。どうしたらいいでしょうか?」
僕「3倍にする前はどのくらい売れてたんですか?」
Aさん「いや、売れてないです。」
僕「それメッチャ面白くないすか?」
(既読無視)